ルソーの立ち位置が中世と近代の中間にあることが明確にされている。キリスト教の原罪に基づく性悪説をルソーは批判した上で、弁神論で神の善性を擁護することから、自然状態にある人間や、神の被造物としての自然も善とする。これは、人間の自由によって、人間的自然・人間本性から外れることから悪が生じるとする『学問芸術論』や『人間不平等起源論』の議論とつながっているし、だからこそ人間的自然・人間本性に沿った社会構想としての『社会契約論』へも接続される。キリスト教では、男が一人でいるのは良くないため女が作られたとする話から、社会は人間的自然・人間本性とされるし、人間は創造されたとき既に神と話せたとされていることから、言語能力も人間的自然・人間本性とされる。また、善悪の知識の木の実を食べたことから、原罪に染まっている。ルソーが想定する自然状態では、社会を形成されておらず(『人間不平等起源論』)、言葉も使えない(『言語起源論』)。社会の形成は人間の自己完成能力の発現によるもので、神の責任ではなく、人間の問題であり、その結果悪が生じたのなら、悪は神とは無関係となる。この弁神論は、キリスト教という具体的な宗教から切り離された、抽象的な神の捉え方に通じる一方、神から脱却する自然の捉え方をする近代にはたどり着いていないとも言える。それでも純正な理神論と捉え得るのではないか? 近代的な理念としての信教の自由との関連で言えば、神を前提していること自体が弱点ではあるが、理神論における神を〈未知なる世界の起源〉として無視してしまえば、世界は世界、良くも悪くもないと割り切れるはず。ならば、ルソーの基本的な考え方はほぼ無傷で保存できるはずだ。