“輪袈裟”自体が、今は、“経文”や“観音名”等が記されていたり、宗門が明らかにされる“門徒式証”であったりと、色々細かく形式化されて、使用者を混乱させているばかりではなく、宗派のしきたりなどの体現用品になっている感が強いように思われます。
然し、哲学者である、“釈迦牟尼”が、そのような、宗派の儀式化痔多用法をお喜びであるとは思われませんでした。
この輪袈裟に出会い、輪袈裟本来の、“質素”な形で、悟りそのものを尊重するよ“輪袈裟”本来の品格に触れることができたと思っております。
私自身宗門から、本堂改築の寄付の際に頂いた輪袈裟を持っています。
しかし、二つ目の他宗派の大学で、必須科目として仏教学を学んだ際、宗派という世俗的な権威付けに大きな疑問を持つようになりました。まあ、私が、正当な宗門信徒ではないというのが原因なのでしょうが。
そんな意味で、宗門から頂いた“輪袈裟”本来の在り方に触れる事が出来たと確信致しました。
悟りは、宗派に認定されるものではなく、それぞれの心の中で育まれるものと信じておりますので、私は、この“輪袈裟”に誇りを持って使い始めました。
購入して早速近くの古刹に参ってきました。
何一つ宗派という敷居や、細かな形式を気にせずに身に付けることができるこの輪袈裟に誇りと感謝を持っています。
勿論、作りもきちんとしたもので、満足して居ます。
しかし、常用するとどうしても、汚れなどが気に気になるので、追加注文させて致しました。汚れも風格に繋がるかとは思いながら・・・